粋という名の痩せがまん

目には青葉山ほととぎす初鰹
江戸時代中期の俳人、山口素堂(1642~1716)が、初夏の江戸の風物を詠んだ有名な句である。

〝青葉・ほととぎす・初鰹〟と、初夏の季語が、3つも羅列されており、俳句の技巧としては通常嫌われる〝季重なり〟を意図的に用いている。
目には美しい〝青葉〟が
耳には山の〝ほととぎす〟の囀りが
口には〝初鰹〟の旨味が

(初夏の風物に親しむ幸せよ)

というような意味だろうか。

上五が『目に〝は〟青葉』と、字余りになるところで、いったんゆったりとした調子になり、目の前(視覚)に広がる青葉の情景が浮かぶ。そこから一気に聴覚と味覚を畳みかけるように並べ、五感で感じる初夏の風物の揃い踏みとなる。

だから、上五を『目に青葉』と字余りにらならない形で〝間違えて〟覚えられるのは、素堂としては残念でならないところだろうなぁ、などと思ったり。

句の解説は、今は亡き高校時代の恩師のありがたい教えと、付け焼き刃にネットで補強した知識なので、これくらいで。



さて、本題の〝粋という名の痩せがまん〟である。

江戸時代には、初物を食べると寿命が75日伸びるとか言って、旬のものをいち早く食べることを粋ととらえていた、とか。

一方で、初鰹は、庶民にはなかなか気軽に手を出せない高級食材だった、ということも聞く。

また、実は初夏に獲れる初鰹は、身がしまっていて、旨味はあまりないという人もいる。秋の戻り鰹の方が、脂がのって美味いのに、という理屈だろう。

それでも初物に拘りたい江戸の人々は、実際には、食べていなかったにもかかわらず、『初鰹を食べた』と自慢気に吹聴して回ったんだと。

つまり、『初鰹を食べた』と自慢気に吹聴して回る行動そのものが、初夏の江戸の風物詩だった、というのが、やはり、高校時代の恩師の説だったと、ぼんやりと思い出したのだ。

やっぱり、見栄だな。

つまり、見栄をはるために、〝粋という名の痩せがまん〟をしていた、という、随分長く語った割には、中味の薄〜い話。


なんでこんなことを思い出したかというと、今日、スーパーで〝初物〟の〝クリームスイカ(熊本県産)〟を買って食べたところ、思いの外あっさりして甘味が少なかったため、『あぁ、柄にもなく初物をありがたがって、見栄をはっちまったなぁ。失敗しっぱい(>_<)』なんて思ったことがキッカケなのだ。


しかし、こうして、何かの拍子に不意に思い出すことがあるって、なんだか素晴らしいよな、とか思ってみたり。

なんとなく、今日も人生を楽しんでおる。ありがとう。

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