ココロが風邪をひいていた頃(1)

ダレかの参考になればと思い、思い出しながら書いてみる。(^^)


あとから思えば、自覚症状に気づいたのは、今から15~6年前の2001年か2002年頃だ。

情報処理の部署には2002年まで10年間在籍していて、特に後半5年間はシステム開発業者とシステムを使う担当事業課のメンバーによるシステム開発チームに自治体SEの立場で参加し、別室にこもってひたすらノートPCの前でプログラミングをしたりしていた。

システム開発の終盤の2年間くらいは、煮詰まって残業が続き、ほぼ太陽を見ないような生活パターンに陥っていた。

開発チームの一応リーダー的立場だったボクは、さまざまな場面で方針の決定や開発手法の見直しの判断を下すことが多々あったのだが、特に最終盤の頃になると、次第にモノの名前が出てこない、人の(極端な話、同じ開発チームのメンバーの)名前が分からなくなる、ものすごくカンタンな事柄の判断がつかなくなる、眠れない、起きられない、起きてもなかなか覚醒した感じがしない、夜になるとようやくシャキッとして、やや活動的になってくる、慢性的な倦怠感が解消しない、などの症状を呈し始めていた。それが2001年~2002年頃のことだ。


システム開発を終えた2002年度末、人事課から、あろうことか、当のシステムを担当利用する部署の係長への異動を命じられた。

異動の状況は、異常だった。

その年度から制度の大転換を実施する(そもそもそれに対応するためのシステム開発だった)ことになっており、住民からの一斉の苦情処理が見込まれる状況であったにもかかわらず、担当係長のボクを始め、担当課長、課長補佐、スタッフ職の管理職員の全員が異動で変わっていたのだ。

当然、誰も制度の大転換について十分な承知をしていないまま、苦情処理のための臨時窓口を設けたり、苦情に訪れた住民の方の案内をする派遣社員の契約をしたり、事務補助のための臨時職員を雇ったりする一方で、通常の仕事もこなさないといけない異様な毎日を夏までの4ヶ月間ほど続けた。その間、苦情処理の2次対応は当然担当係長であるボクの役目で、毎日のように、無為とも思えるような説得を試みては、納得を得られないことが続き、もうヘトヘトになっていた。

その頃すでに自律神経失調症は完全に病理を表に現しており、先にものべた「簡単な事柄の判断ができない」状況で、日常的な業務についてまでも、ボクの判断はことごとく裏目に出る始末で、いつしか部下からの信頼も失っていくのであった。

8月、ついに、ある内臓疾患が判明し、3週間ほど大学病院へ入院することになった。

退院後も、先に述べた諸症状は全く改善しておらず、ついに心療内科の門を叩き、自律神経失調症(初期鬱症状)の診断を申し渡され、そこから3ヶ月強の自宅療養を始めることになる。(次につづく)

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