去ル者ハ日々ニ疎シ

吉田兼好/徒然草 第三十段(抄)

[原文]
年月経ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸(から)は気(け)うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
[現代語訳]
時が過ぎ、全てを忘れ去るわけでないにしても「去っていった者は、次第に疎遠になるものだ」という古詩のように忘れていくということであれば、亡くなった時ほど悲しい思いではないはずだ。だから、時が経った今は、下らない与太話に、声を上げて笑い出すようになった。遺骨は、辺鄙なところに埋葬されており、遺族は命日にのみ、お参りにくるだけだ。間もなく墓石は、苔生して枯れ葉に埋もれていく。夕方の嵐や、夜の月だけが、欠かさずお参りをしてくれる頼りだ。

父が亡くなって2年が経った。
朝から仏前を清め、お供えをして、線香をさした。

そして今。
親不孝者のボクは…。



去る者は日々に疎し。
親であれ、子であれ、妻であれ、友であれ。
目の前から消え去り、時が流れてゆけば、次第次第に、愛しさはカタチを変えて、やがて…。


生きているからには、受け入れなければならない〝無常〟というモノだ。


だから、今在ることを喜び、今できることを楽しんでいく。

ただ、それだけ。



0コメント

  • 1000 / 1000